** はじめに / もう少し教育寄りに - 一般的な表現でいえば,ここで取り組んでいることは「教材研究」の延長なのだろうと思います。 -- 通常の教材研究でも,教具の使い方などの工夫を検討することはよくあると思います。 -- そのようなときの教具は,ある意味で,「一時的」な利用です。 -- その内容を理解したら,「卒業」すべき存在です。 -- でも,GCなど多くのソフトは,「その利用を前提として数学に取り組む」と,「ないときとはかなり変わる」のが普通です。 -- だからこそ,ここの問題「ごと」につくるのではなく,「汎用ソフト」つまり「ツール」として開発しています。 -- 「それを使うことを前提にする」なら,そこで習得できる知識・技能は,これまで以上に,「利用しやすく」なっています。 -- そういう意味で,「GCの利用を前提にすることで,学ぶべきことを変えていけるのではないか」という提案でもあります。 - また,GCを使うとき,「グループでの活動」が増えました。 -- 観察や言語活動の活性化により,「いい学びが実現されている」と感じています。 -- そこで生まれているのは,「答えがわかっている子がわかっていない子に教える」という姿だけではなく,対等の立場の学び合いであることが多いです。 -- また,気づいたことなどをきっかけに生まれる言語活動から,取り組んでみたい問題が生まれたり,それに対して観察あるいは推論など,さまざまな活動が生まれることで,「いい学び」を実感できることが増えてきました。 -- 「そこでは何かがなされているのか」を観察し,記述し,価値付けしていくことは,いい授業を実現していく上で,きっと大切です。 - また,ソフトは「設計し,実装する」ものでもあります。 - 生徒の探究のあり方を「設計する」ことも,教育学的研究の分野になるということでもあります。 - そのようなことから,GCでの教材研究の中で,「探究」という表現を使うのは,次のようなことを想定しています。 -- 「思考の道具」が変わることによって,紙と鉛筆などの伝統的な道具を使ったときと,生徒の活動の様子が大きく異なってしまうことがある。 -- それは,「探究の探究」つまり,人間の取り組み様子を客体化して,「なにを変えると,どういうことが起こりうるのか」を検討する機会が多いことを反映する必要がある。 -- そして,ときとして,「適切と思える道具」を修正したり,機能を追加ししてしまうこともある。 -- 紙と鉛筆では「観察することができなかった」数学的現象を観察可能になることもある。 -- 紙と鉛筆では扱わなかった数学的概念等を扱えるようになることもある。 -- 紙と鉛筆では現実的でなかったことが現実的に取り組めることもある。 -- 逆に,紙と鉛筆では,適度の困難点によって,生徒に適切な教材として使えたのに,道具を変えたらそうではなくなっしまった例などもある。 **構成 *** GC固有のプロセス - 紙と鉛筆と比較して,特徴的な「探究のプロセス」に名前をつけ,例示やコメントをします。 *** 事例に則した「エピソード」の蓄積 - ケーススタディといえば,ケーススタディですが,「こんなことを観察した」ということもあれば,「自分でこんなことを経験した」という記録もあります。客観的というよりは,主観的であっていいと思っています。 - 考えるためのヒントですから。